六ヵ所村再処理工場から、高木仁三郎まで

<<三陸の海を放射能から守る岩手の会>>

ホームページ
http://homepage3.nifty.com/gatayann/env.htm

最新のミニコミ号外
(六ヶ所海域海草から高い濃度のプルトニウム)棒グラフ掲載
http://homepage3.nifty.com/gatayann/gougai.pdf


<<原子力資料室情報>>

六ヶ所再処理工場に関する批判的研究(澤井 正子)
核燃料サイクルと直接処分のコスト比較(伴 英幸)
http://www.takagifund.org/grantee/03/03pdf/33022.pdf


<<高木仁三郎市民科学基金>>

六ヶ所村再処理工場に関する包括的批判的研究
http://www.takagifund.org/grantee/03/03cnic-sawai.html

<<高木学校・原子力問題研究グループ>>
http://takasas.blog9.fc2.com/

こんな記事もあります。
内容:第1部 放射線の線量値とそのリスクを知る
   第2部 放射線被ばくはなぜがんの原因になるのか
   第3部 「医療被ばく記録手帳」を使ってみて

 放射線被ばくによる発がんなどの危険(リスク)は、線量に比例して高くなり蓄積するので、「ある量以下だと安全」というしきい値はありません。したがって放射線はできるだけあびない方が良いのです。
 しかし、日本では有効性がないと以前から分かっていた結核の胸部X線検査が今年まで義務づけられていましたし、肺がんや乳がんの健診もリスクを無視して進められています。被ばくによるがんや心臓疾患などは何年も経ってから発症します。それから対策をたてたのでは遅いのです。無駄な被ばくはできるだけ避けましょう。
 そのために「医療被ばく記録手帳」をつけることを私たちは提案します。
 高木学校で取り組んでいる「医療被ばく問題」、その取組としての「医療被ばく記録手帳」が2005年11月28日付 毎日新聞・東京版夕刊に記事として掲載されました。

<<高木仁三郎の部屋>>
http://cnic.jp/takagi/

友へ 高木仁三郎からの最後のメッセージ
http://cnic.jp/takagi/words/tomohe.html
「死が間近い」と覚悟したときに思ったことのひとつに、なるべく多くのメッセージを多様な形で多様な人々に残しておきたいということがありました。そんな一環として、私はこの間少なからぬ本を書き上げたり、また未完にして終わったりしました。

未完にして終わってはならないもののひとつが、この今書いているメッセージ。仮に「偲ぶ会のためのあらかじめのメッセージ」と名付けますが、このメッセージです。

私は大げさな葬式のようなことはやらないでほしい。もし皆にその気があるなら「偲ぶ会」を適当な時期にやってほしい、と遺言しました。そうである以上、それに向けた私からの最低限のメッセージも必要でしょう。

まず皆さん、ほんとうに長いことありがとうございました。体制内のごく標準的な一科学者として一生を終わっても何の不思議もない人間を、多くの方たちが暖かい手を差しのべて鍛え直して呉れました。それによってとにかくも「反原発の市民科学者」としての一生を貫徹することができました。

反原発に生きることは、苦しいこともありましたが、全国、全世界に真摯に生きる人々と共にあることと、歴史の大道に沿って歩んでいることの確信から来る喜びは、小さな困難などをはるかに超えるものとして、いつも私を前に向かって進めてくれました。幸いにして私は、ライトライブリフット賞を始め、いくつかの賞に恵まれることになりましたが、繰り返し言って来たように、多くの志を共にする人たちと分かち合うべきものとしての受賞でした。

残念ながら、原子力最後の日は見ることができず、私の方が先に逝かねばならなくなりましたが、せめて「プルトニウムの最後の日」くらいは、目にしたかったです。でもそれはもう時間の問題でしょう。すでにあらゆる事実が、私たちの主張が正しかったことを示しています。なお、楽観できないのは、この末期症状の中で、巨大な事故や不正が原子力の世界を襲う危険でしょう。JCO事故からロシア原潜事故までのこの1年間を考えるとき、原子力時代の末期症状による大事故の危険と結局は放射性廃棄物が垂れ流しになっていくのではないかということに対する危惧の念は、今、先に逝ってしまう人間の心を最も悩ますものです。

後に残る人々が、歴史を見通す透徹した知力と、大胆に現実に立ち向かう活発な行動力をもって、一刻も早く原子力の時代にピリオドをつけ、その賢明な結局に英知を結集されることを願ってやみません。私はどこかで、必ず、その皆さまの活動を見守っていることでしょう。

私から一つだけ皆さんにお願いするとしたら、どうか今日を悲しい日にしないでください。泣き声や泣き顔は、私にはふさわしくありません。

今日は、脱原発、反原発、そしてより平和で持続的な未来に向かっての、心新たな誓いの日、スタートの楽しい日にして皆で楽しみましょう。高木仁三郎というバカな奴もいたなと、ちょっぴり思い出してくれながら、核のない社会に向けて、皆が楽しく夢を語る。そんな日にしましょう。

いつまでも皆さんとともに
高木仁三郎
世紀末にあたり、新しい世紀をのぞみつつ


原子力推進側の科学者と思われる方からのメッセージを見つけました。
http://homepage2.nifty.com/aquarian/Essay/Es001015.htm

00/10/15

高 木 仁 三 郎 の 死

 高木仁三郎が死んだ。もう何年も前から、彼が死を覚悟の闘病をしていると聞いた。彼自身も、著書でそのことをあかしている。しかし、このところ、前にもましてせっせと書いているので、案外良いのかと思っていた。そこへ彼の死の新聞記事。やはり駄目だったのだ。

 惜しい人を亡くした。私は原子力の世界に身を置いていた人間である。私の業界では、彼のことを蛇蝎のごとく嫌っている人が多い。心の底では、敵陣営の猛将の死を、わが軍有利とうれしがり、ほっとしている人もいるだろう。しかし、一方、原子力推進の人でも、彼のことを高く評価する人も結構いる。反原子力の立場でものをいう人の中で、彼は、非常に高い科学的レベルとトータルな視点で論じていて、推進側も脱帽していた。科学のレベルで議論しても、政策論となると、最後は人間としての判断になるから、結論は違ってしまうが、彼のいうことの大半は非常に説得的だった。

 彼が終始警鐘を鳴らしたのは、プルトニウムの利用に関してであった。原子力が今より、ずっと楽観視されていた頃、原子力の世界では、プルトニウムの利用にこそ原子力の無限の可能性があると、誰もが信じていた。核燃料サイクル、すなわち燃えた後の燃料棒の中から、プルトニウムを取りだし(再処理)、新たな燃料としてリサイクルすることで、資源問題を、永久に克服できると甘く考えていた。そのころから彼はプルトニウムの危険性を鋭く批判していた。

 プルトニウムそのものと、それを取り出すために再処理すること、との環境への危険性、プルトニウムを使う原子炉の危険性、プルトニウムの核兵器転用の危険性、そしてプルトニウムを使うことが経済的に引き合わないこと。

 彼がそれを言い始めた頃は、エキセントリックな意見と見えた。しかし、その後の時代の推移は、彼の指摘が正しかったことを次々に実証して行った。どんどん彼のいうようになってきた。原子力大国アメリカは、とっくの昔に(カーター大統領の頃)、プルトニウムを民生には使わないという方向へ政策転換した。その後、原子力をやっているほとんどの国は、そういう方向に転じて行った。彼のいうとおりだったのである。

 日本だけが、いまだにかつての楽観的な政策を、基本的には変えていない。ただ、実施の計画は大幅に遅らせようとしているだけである。プルトニウムを使うFBRが近い将来実現しようとは、業界の人も、今やほとんど信じていまい。にもかかわらず、それを明瞭な政策転換とは言いたくないらしい。悪名高い「もんじゅ」も、何とか再開した上で、けりをつけたいらしい。青森県六カ所村の再処理工場も、建設が進んでいる。動き始めたら、出てくるプルトニウムをどうしようとしているのだろう。

 彼がいち早くかき鳴らしていた警鐘の通りにはなったが、まだプルトニウムの息の根は停まっていない。この段階で彼は死んだ。彼の死は、反原発の運動にとって、大きな痛手だろう。それだけでなく、日本の原子力の将来にとって、結果として大きな損失であるように、私には思える。

 私は彼とほぼ同世代。私の方が少し上かな。ほぼ同じ時期に、科学を学び、原子力の研究に夢を感じ、身を投じた。彼は早々と原子力に疑問を感じ、反対運動に転じた。私は原子力の研究に魅力を失い、基礎研究に逃れた。その後、原子力の側に身を寄せながら、彼の存在はいつも気になっていた。彼の運動と、世の中の推移にともない、原子力の防衛線は年とともにジリジリと後退していくのを見てきた。私にとって彼は、対極にいながら、教えられ、時には厳しく問われながら、刺激を受ける得難い存在だった。その彼が死んだ。

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