【原発震災】 『原発は要らない』との声が一番勇気づけられる

 「家も田畑も山も見た目は何も変わらない。でも日々の営みができない死の世界。『原発は要らない』と声を出してください。福島県民として一番勇気づけられる」浅田正文さん(70)福島県田村市都路町

危険と引き換えに、電気はいらない。

河北新報(2012年01月04日水曜日)から
https://bblog.sso.biglobe.ne.jp/ap/tool/newnewseditdisplay.do

市民集会で原発事故の体験談を語る浅田さん。切実な訴えが聴衆の心を打つ
昨年12月11日、富山市の県民共生センター

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 「家も田畑も山も見た目は何も変わらない。でも日々の営みができない死の世界。『原発は要らない』と声を出してください。福島県民として一番勇気づけられる」

 昨年12月11日、富山市の公共施設。市民集会で浅田正文さん(70)は聴衆60人に語り掛けた。福島第1原発事故で避難してから40回以上、こうした場で体験談を話した。
 自宅は田村市都路町の山中にある。原発から24キロ。1号機が爆発した3月12日、町全域に避難指示が出た。妻の真理子さん(62)と金沢市の友人宅に身を寄せた。
 1週間後に金沢市が提供した市営住宅に入り、6月に街中の一軒家に移った。家具付きで2年間無償。交響楽団が演奏会に招待してくれ、市も心のケアに気を配ってくれた。親切が身に染みた。
 テレビで見る避難所生活とは雲泥の差だ。福島を離れた身で役目があるとすれば、再び事故が起きないように原発廃止を訴えることではないかと思い、脱原発の活動を最優先すると決めた。
 原発問題を考え始めたのは1995年に都路に移り住んでからだった。
 「東京に住んでいた時、福島から電気が来ていることを知らなかった。都路に来て、こんなに近くに原発があると驚いた」
 原発の「軽微なトラブル」は頻繁に起きた。99年の茨城県東海村臨界事故、2002年の東京電力トラブル隠しなど重大な事故も繰り返された。
 「原発は人知を超えた危険な物。動かしてはならない」。脱原発運動に加わり、その立場で東電の株主になった。「ずっと廃炉を求めたが、こんな形で実現するとは思わなかった」と長嘆する。

 6月28日、東電の株主総会で脱原発の株主提案を読み上げた。
 「帰りたい、でも帰れない。私たちは流浪の民となった。やるせない、無念、悔しい。どんなに言葉を並べても言い尽くせない。こんな体験は私たちだけで十分です」
 例年なら脱原発株主の発言はやじでかき消されるが、会場は静まり返った。朗読は持ち時間の3分を超えて10分に及んだ。制止はない。最後に福島の子たちが折り紙で作ったバラを、社員を通じて壇上の勝俣恒久会長と西沢俊夫社長に渡した。
 2週間後、両氏の自筆の署名入りで浅田さんにわび状が届いた。「お花に込められた思いを真摯(しんし)に受け止め、一日も早くご帰宅できるよう全力を尽くしてまいる所存であります」
 脱原発・東電株主運動事務局によると、東電首脳から脱原発株主に手紙が来るのは「経験のない出来事」。ただ「脱原発」の3文字はなかった。

 都路の生活は楽しかった。田畑を耕し、井戸を備え、暖房は山から採るまきで賄った。一時帰宅した時、放射線量を測った。屋外は毎時1.2マイクロシーベルト、畑は2マイクロシーベルト、山は5マイクロシーベルトと高数値を示した。
 もうまきは燃やせない。山菜も採れない。桑の実でジャムも作れない。楽しかったこと全てができなくなった。
 「山の除染は不可能だ」と言う。落ち葉や下草を取り払ったら動物のすみかがなくなる。沢は濁り、土石流が起きる。9割方、都路には戻らないと決めている。
 でも諦めきれない1割が残る。次の世代に対し、フクシマをこのままにしていていいのか。自分たちの幸せだけを求めていいのかと悩む。「振り返ると涙ばかり。先を考えると迷いしかない」

<6年前の連載/自然観察、子らに指導>
 浅田さんは東京の大手食品会社を早期退職し、旧都路村に移住した。移住3年半後の1999年、村内のごみ処理場計画に反対して村議選で当選。計画は中止となり、村議は1期で引退した。地域の子に自然の豊かさを伝えようと、夫婦で自然観察指導員を務めた。(2006年3月21日付)

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