赤坂憲雄氏/玄田有史氏 特別対談「伝える 生きる」戦後70年(岩手日報2015年1月11日9面)

戦後70年 伝える 生きる 【特別対談】赤坂憲雄氏/玄田有史氏 岩手日報2015年1月11日(9面)

赤坂憲雄さんには、ふくしま会議代表理事、福島県立博物館館長として「コミュニティパワー国際会議in福島」2014年2月1日(福島文化センター)に基調パネル、2日(喜多方プラザ文化センター)で基調メッセージを聞かせていただいた。
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◆玄田有史(げんだ・ゆうじ)氏 岩手県釜石市で「希望学」の調査実施「成長から成熟の時代に」
・専門は労働経済学。06年から釜石市で希望と社会の関係を考える「希望学」の調査を実施し、震災後も継続している。主な著書に「希望のつくり方」(岩波書店)「<持ち場>の希望学」(共著・東京大学出版会)など50歳。島根県出身。

◆赤坂憲雄(あかさか・のりお)氏 岩手県遠野市 遠野文化研究センター所長「自治、自立再建すべき」
・専門は民俗学・日本文化論で、それを基本にした地域学「東北学」を提唱。11年4月から遠野文化研究センター所長を務める。主な著書に「3・11から考える『この国のかたち』東北学を再建する」(新潮社)「震災考」(藤原書店)など。61歳。東京都出身。

<<問われるべき次代への継承>>
 玄田 戦後70年は10年区切りで見ると、戦争と震災を両方を生きた人がいるという意味で、非常に重要な時だ。両方の苦難を経験された方の言葉に耳を澄ませるべきだ。
 赤坂 そうだと思う。伝えるという意味では80年では難しくなる。伝えるべきことを今この時期にきちんと形にして次の世代に継承できるかで、80年の意味はまったく変わる。
 玄田 震災後に熊本県水俣市を訪れたが、元市長は福島が心配だと言っていた。水俣病が発症してからの50年ですらうまく伝え切れていないのに、この70年という期間を僕らは伝えることができるのか。
 赤坂 福島の現実に向かい合おうとすると、水俣は、あらためてリアルな意味合いを持ち始めている。患者としての認定や裁判などあらゆることをやったが、結局は曖昧にされて「棄民状況」が残ってしまった。その人たちに耳を傾けることが求められている。
 赤坂 自分より年上の方から敗戦直後と震災後の状況の比較を聞くと、異口同音に「戦後は圧倒的に明るかった」「だが今は暗い」と語る。敗戦でそれまでの政治・経済などさまざまなシステムが崩壊したが、生き残った人たちでゼロから主体的に創っていくことができる。当時は『創っていくことができる』という希望を当たり前に持っていた。社会の在り方みたいなものを背負っていたという感覚。ノスタルジー(郷愁)ではなく、われわれが創っていかなければならない社会にとって多くのヒントがあるのかもしれない。
 玄田 ノスタルジーではなく、というのはとても大事。表面的に昔は貧しいけど純粋でよかった。それに比べて今は駄目っていうのは歴史に対して失礼だ。生の声、表情、時には姿と言葉が一緒になって人間から伝わるメッセージがある。乗り移ってくるような感覚。戦後70年の記憶を語る時、そういうのを大事にして、そこから学ばなくてはいけない。

<<「0」か「1」かではなく>>
 赤坂 震災後にまず考えたのは小さな地域学をたくさん立ち上げていくことが必要だということ。僕の教え子でも宮城県東松島市などに入って、明治からの記憶を掘り起こそうということを始めた。都会の若者が震災後にボランティアなどで東北に入った。被災地で何とか実践しようとして、うまくいかずに戻った人もいる。でもその体験は生きると思う。東京に戻ってから彼らはいろいろなことを始めている。
 玄田 足元を見つめるというのは重要だ。高度成長時代は足元より遠くを見る。米国がどうか、それをどのように輸入するかとか。そして、いわば大きなものの中に生きてきた。大きな大学を出て大企業に入って大きな仕事をする。だが、足元がしっかりあって、そこをベースにして行き来することの重要性を、震災後に確信に近い形で感じている人が出ていると思う。
 赤坂 その意味で、地域の信用金庫とか信用組合が国際的な株式市場に投資している現状は、おかしい。復興の中で考えたのは別に何十億という助成金はいらない。わずかなお金でも自分たちの足元を固めていくために使えるお金でいい。それが必要ということ。集めたら志のある人の中で顔の見える使い方をするという発想の転換が必要。かつては「無尽」「講」とか地域のお金を回す手法があった。その意味で、再生可能エネルギーの動きの中で、市民からお金を集めるシステムが動きだしている。そんな小さな動きを一つ一つ育てることが必要な時代だ。
 玄田 戦後70年の文脈で見ると、半分を過ぎた昭和の終わりごろに「ネクラ」「ネアカ」という言葉が出てくる。そのあたりから価値観を二分法で判断するようになったのではないか。ちょうどデジタル時代になってアナログが軽蔑され「0」か「1」か。「白」「か「黒」か。その発想が当然になってしまった。終戦直後と震災後の比較で言えば、「明るい」とか「暗い」ということは表裏一体だと思う。震災後の今の「暗さ」を語る場合、明るさと暗さとが表裏一体という理解がないと希望は生まれないと思う。

<<「てんでんこ」=「信頼」>>
 玄田 震災後、間違いなく「安心」の意味は変わった。何も考えなくても気持ちよく穏やかに生きられるなんて安心は、震災を経験するとないんじゃないかということに気付かされたのではないか。
 赤坂 被災地には防潮堤の問題がある。巨大防潮堤を造っても、安心とか安全に包んでくれるわけではない。自然の猛威は人間の造ったものを超えてくるということがはっきりした。にもかかわらず、復興の現場で行われているのは、巨大防潮堤を張り巡らせることだ。隣り合う集落で死者数に違いが出た地区があったが、それはコミュニティーが生きていたかどうかの違いだ。
 玄田 震災後に「津波てんでんこ」の本当の意味が問い直されている。てんでんこは、自分の命を優先させる個人優先だと思われているが違う。親が子どもを迎えに行くことをぐっとこらえて学校を信頼する。「信頼」が根底にあるからこその言葉だ。震災後の大きなキーワードの一つは「信頼」だと思っている。言葉だけ残って、百八十度違う意味が伝わったらみんな不幸になる。
 赤坂 都会で大きな地震が起きた時に、放っておいても「てんでんこ」でやるんじゃないか。コミュニティーも共同体も、絆もない場所で。意味を違え、てんでんこだけがのさばるのは本当に不幸だ。
 玄田 防潮堤の議論は、必要ないと思っている人もいれば、不可欠だという人もいる。まさにコミュニティーの中の問題として問い掛けられている。何が本当の公平なのか。対立を乗り越えて、ここで向き合わなくてどうするのかと思う。

<<判断のバトンをつなぐ>>
 赤坂 震災遺構について被災地では残す、残さないで議論が対立している。どこかで棚上げにして10年ぐらい放っておいてもいいと思う。人の意識は変わっていく。「残さない方がいい」と感じている遺族の思いは分かるが、10年後に「震災ってあったっけ」という忘却のふちに沈められた時、建物の意味が分かってくる。原爆ドームは対立の中で決着がつけられずに20年たって「残す」という合意がようやくできた。この瞬間に「白か黒かをつけるのが正しい」という脅迫的なものに揺り動かされているように感じる。「0」か「1」か。「白」か「黒」か。それが社会を動かしては日本にとっては決していいことではない。もっとじっくり議論すべきだ。リーダーシップのある強い人が決めるのが正しいみたいなのは、違うと感じている。
 玄田 すぐに結論を出さないというのは先延ばしではなく、バトンをつなぐとうこと。今も一生懸命に悩むけど、もし決まらなければ次にバトンをつなげばいい。信頼してバトンを切らさないでいこうという意味で。
 赤坂 対極的なことが政治で起きている。原発の再稼働問題など、今ここで生きている人たちの利権とか、しがらみが優先される。大きな声で何かを選択するというふうに動いている。もちろん、原発で大量に出る核のごみを、今は処理する能力も技術もないから「未来の世代に託そう」というのは「バトンをつなぐ」こととは違う。似ているようで全く違う。
 玄田 日本が経済的に繁栄した時に何が支えたかというと「長い目で見て考える」ということだったと思う。長い目で人を育てるとか、長い目で銀行も企業と付き合うとか。そこが強みだったはずだ。震災が起きて、考え方だけでなくて生き方、振る舞い方も含めて修正していく大事な時かもしれない。

<<人口減社会での可能性>>
 赤坂 被災地では平成の市町村合併が大きな影を落としていた。合併した周辺の旧村の中に置き去りにされていた地区がたくさんあって、地域を知らない役場職員が現場にいる。広域化がもたらした負の遺産のようなものが、震災でむき出しになってしまった。
 玄田 高齢化、少子化の中で総務省は「コンパクトシティー」が重要と言うが、東北では批判も多い。生きるための「広さ」が乱暴に議論されている。無理に行政単位で効率的に機能面だけを重視するのではなく、本来生きていくためにスペース、場所がどのくらいのものなのかを考えるべきだ。
 赤坂 福島のある被災自治体は、震災前はとても優等生だったが、内実は予算の8、9割が国や県の補助金をうまく回していただけだったことが震災で浮き彫りになった。自分たちの自立的な産業をどう興すというのではない。そこでは常に国から切られたら立ち行かなくなるという脅迫観念がある。自治とか自立というものを、もう一度コミュニティーに根差して再建しなければいけない。その意味で、会津では、再生可能エネルギーで地域の自立につなげる試みが始まっている。
 玄田 高齢化や住民人口が減っていく流れは当面は変わらないのは事実だとは思う。だが、全て駄目かというとそうではない。最近、「希望活動人口」という言葉を使っている。釜石では製鉄所の勢いがあった当時に人口9万人だったが、製鉄所への依存が強いせいで、地域の希望を忘れずに具体的に行動を起こす人が千人しかいなかったかもしれない。今は3万6千人に人口は減ったが、希望を持っている人が5千人になったら、こっちの方が可能性がある。
 赤坂 誇りを持って地域のあすの形を自分たちが創るんだという気持ちが大切。福島には逃げ場がない。覚悟を決めて、でもまだ余裕があった人たちが集まって再生可能エネルギーの取り組みを始めている。だから希望がある。
 玄田 22世紀に世界史の教科書に年表があったら「パックス・ジャポニカ(日本の覇権)」は数ミリ程度だろう。1980年代からバブルがはじける前の10年にも満たない。ほんのちょっとの繁栄しかないのに、それを少しでも延ばそうと無理な努力をしている。被災地は「活性化」も「成長」も求めていない。そこにあるのは種の「成熟」だと思う。戦後70年の成長の時代から成熟の時代に変えていくべきだ。被災地、特に若い人は本当の意味の成熟を求めている人が増えていると思う。若者は「成長」という言葉ではもはや反応しない。

<<希望を語り共有する時>>
 玄田 震災から1年ぐらい、「希望」という言葉を使うのがはばかられた。大切なものを失った時に「希望を持って生きましょう」とは言えなかった。ただ、3年10ヶ月たった今、希望をあえて語ろうという人たちが増えている。今こそ希望を語り、地域で共有する時ではないか。
 赤坂 福島と岩手、宮城では復興の道筋が違うだろうと思う。宮城は東京から資本を入れて、漁業権を解放して漁村を改革することを打ち上げた。しかし、岩手はそういうのには乗らない。それはコミュニティーがきちんと生きている土地だからだと思う。岩手には原発が無い。原発はコミュニティーが弱まったところに巧妙に入り込んでくる。原発を受け入れなかった岩手が持っている「したたかさ」「しなやかさ」がもっと語られていい。
 玄田 一方で、復興構想会議の時、ある官僚が「岩手の人は道路のことしか言わない」と言っていた。震災で道路整備が進んだが、それがつながってゴールではない。県としての希望の共有があり得るか、今から議論していかないと立ち行かなくなる。釜石のある経営者に言われて心に残るのは「棚からぼた餅はない」という言葉。与えられた希望は希望ではない。
 赤坂 震災後に後藤新平が語られるようになった。確かに果たした役割は大きかったが、この時代に後藤はいないんだと思う。そういうふうに一人一人が覚悟を決めて、執念深く諦めずに続けていくことが求められている。玄田さんは「釜石を離れない」と宣言している。学者としていい意味で寄り添い、共に考え続けたい。自分は、福島、東北に命ある限り関わり続けたいと思っている。
 玄田 自分の出身地以外にほかに深く関わり続けられる場所があるという生き方はいいと思う。IターンとかUターンのように「0」か「1」でなく。
 赤坂 そういう生き方が若い人の中で選択肢として当たり前になってくれば面白い。
 玄田 釜石調査を2006年から09年まで行ったが、震災後も間違っていなかったと思っている。特に思うのは、いろいろな立場や居住地、考え方が違う人が集うことによって、互いの「気付き」が生まれることの大切さだ。釜石には排他的でない、外部と緩いつながりを持てる土壌があった。古くから日本にある強い絆とは少し違う「緩くつながる」こと。ここに日本の新しい希望の形があると思う。
                                         (敬称略)
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