原子力は安全ではない。臨界事故10年
2人の作業員が死亡し、周辺住民ら660人以上が被曝(ひ・ばく)した茨城県東海村のJCO臨界事故から30日で10年を迎える。核分裂が連鎖して続く「臨界」が起きた日本初の被曝事故によって、原子力安全神話は崩れた。それから何が変わり、何が課題として残されたか。
この事故は確か現場からの作業の作業能率向上の提案として量をまとめて扱おうとして起こったことだったと思います。臨界量以上にすれば臨界状態になることは原子力関係者なら常識で、それを絶対に起こさないようマニュアルも決められていたはずです。にもかかわらず、現場から作業能率向上の提案として出てきた時、その重大な問題点を挙げて却下すべき人たちが、原子力の初歩的基本を忘れ或いは無視して、安易にそれを承認し、結果として、火の目を見るより明らかに臨界事故に至り、彼らを死亡させ、ひいては周囲にも甚大な恐怖を与えたことは、使用者、管理者として労働者の安全をしっかり守っていく義務を怠った重大な労働安全衛生法違反でありました。こんなひどい労働安全衛生法違反はない、といえると思います。犠牲者は彼らの無責任、怠慢によって殺されました。絶対に繰り返されてはならない事例です。
忘れないように、、、転載です。
https://aspara.asahi.com/blog/science/entry/fvSvnxX149
さまよう原子力「安全神話」 [09/09/18]
東京科学グループ・香取啓介、鈴木彩子
2人の作業員が死亡し、周辺住民ら660人以上が被曝(ひ・ばく)した茨城県東海村のJCO臨界事故から30日で10年を迎える。核分裂が連鎖して続く「臨界」が起きた日本初の被曝事故によって、原子力安全神話は崩れた。それから何が変わり、何が課題として残されたか。
◇医師不足・テロ懸念消えず
防護衣を着て顔面をシールドで覆った医師や看護師らが、ストレッチャーで運び込まれたマネキンを取り囲む。床も壁もシートに覆われた部屋で、放射線の測定器をかざしながら、傷口の応急措置を施す。「普段通りの考え方でやってください」と講師の助言。8月上旬に茨城県立中央病院で開かれた緊急被曝(ひ・ばく)医療研修の一場面だ。
「日本では、原発建設と医療がセットになっていなかった。緊急被曝医療に取り組む医師も教育機関もありませんでした」。講師を務めた原子力安全研究協会の衣笠達也・放射線災害医療研究所副所長は、80年代を振り返る。
阪神大震災以降、国の防災基本計画が改定され、放射線医学総合研究所(放医研、千葉市)を中心とする連絡会議「緊急被ばく医療ネットワーク会議」が98年に発足。緊急時の受け入れ態勢を話し合っていた矢先にJCO事故は起きた。
事故では、関係者の連携や医療態勢をあらかじめ整えておく重要性が示された。
原子力安全委員会は01年、患者の受け入れ態勢をまとめた指針「緊急被ばく医療のあり方について」を作成した。まず、地域の「初期被ばく医療機関」で患者を受け入れ、拠点病院「2次被ばく医療機関」に搬送。さらに、西日本は広島大、東日本は放医研に運ぶしくみを整えた。医療従事者への研修も始まった。
「この10年で医療態勢はずいぶん整った」と関係者は口をそろえる。研修の受講者はのべ1万3千人。原子力施設が立地・近接する19道府県のうち、鳥取県を除く18道府県で、10月までに医療機関の指定が整う見通しだ。
だが態勢はこれで万全か。
課題の一つに、地域医療が抱える問題がある。原発のある敦賀半島に近い京都府は06年、舞鶴市立舞鶴市民病院の「2次」機関の指定を解除した。医師の大学病院への引き揚げなどを受け、06年に24時間態勢の救急救命と外科を休止。「現状の人員と施設では被曝医療はできない」との声が病院から漏れる。
原発周辺自治体以外の対応にも課題が残る。01年の米同時多発テロ以降、核テロへの危機管理が世界的に叫ばれている。被曝医療態勢の整わぬ地域で迅速に対応できるか。
今月5日、札幌医科大で、事故後10年を検証する「緊急被ばく医療フォーラム」が開かれた。事故当時放医研の室長だった鈴木元・国際医療福祉大教授は、参加者に警鐘を鳴らした。「従来の被曝医療は原発立地県に限られ、少数の患者に備えてきた。今後は大勢の患者が出た場合にも対応できるよう、災害医療を整理し直す必要がある」
◇推進側に規制の権限
ハードからソフトへ。JCO事故を契機に、国の安全規制はがらりと変わった。
事故はウランを扱う手順の逸脱が原因だった。当時の規制は、設置許可の審査や定期検査など、施設や設備の安全性に力点が置かれていた。その上、JCOのような燃料加工施設は定期検査が義務づけられていなかった。
意図的な不正をどう防ぐか。国は事故後、原子炉等規制法を改正。施設の運転や保守管理のルールをチェックする保安検査制度を導入し、保安検査官を置いた。
01年の省庁再編に伴って行政組織も変わった。核燃料加工施設に対する安全規制は、科技庁から、新たに設置された原子力安全・保安院が担当するようになった。
ただ「推進と規制の分離」という課題は残った。保安院が原子力を推進する経済産業省に所属する現状への疑問は多い。一方、保安院幹部は「保安院と内閣府の原子力安全委による二重チェックで十分機能を果たしている」と反論する。
◇有事の「目玉」持ち腐れに
事故当日、政府の情報収集は遅れた。現地、科技庁、首相官邸と対策本部が乱立し、混乱に輪をかけた。
現場から10キロ圏内の住民の屋内退避を決めた茨城県。「どこに助言を求めたらいいのか分からなかった」。当時担当した山田広次・危機管理室長は振りかえる。
事故から2カ月後、国は原子力災害対策特別措置法を制定。事業者責任の明確化や、情報・指揮系統の国への一元化などが盛り込まれた。
目玉として作られたのが、災害時に現地本部となるオフサイトセンターだ。1カ所8億~10億円かけて全国22カ所に整備され、原子力防災専門官が常駐する。
しかし、07年の新潟県中越沖地震で運用面での課題が露呈した。東京電力柏崎刈羽原発が被災し、施設内で火災が発生。ごく微量の放射性物質も施設外に出たが、保安院は「原子力災害でない」としてオフサイトセンターを使わず、地元にも情報発信がされなかった。総務省の行政評価もオフサイトセンターの活用を求めた。
◇相次いだ「モノ言う首長」
問 いざというとき本当に頼りになるのは?
答 国19・6%、村67・6%
東海村が事故後の00年2月にまとめた村民アンケートでは、国への不信が明らかになった。
村長の村上達也さんは、かねて「原子力に率直に物が言えない風潮に疑問を感じていた」という。原子力についての村側の議会答弁を原子力業界の職員が書いている現実を目の当たりにした。「住民理解と言いながら、カネや力で抑えていく。そういう姿勢はおやめになったらどうか」
国や原子力業界に対し、「モノ言う首長」は他県に飛び火した。福島県の佐藤栄佐久知事(当時)は事故後の01年2月、原発でプルトニウムを燃やすプルサーマル発電の凍結を宣言。核燃料サイクルの見直しも提言した。中越沖地震を経験した新潟県の泉田裕彦知事も、被災した柏崎刈羽原発の再開について国が「安全」と判断した後も、慎重姿勢を崩さなかった。
原子力資料情報室の西尾漠さんは「事故を契機に、立地地域が原子力後の街づくりを真剣に考え始めた」と話す。
◇臨界終息、発生の20時間後◇
99年9月30日午前10時35分ごろ、茨城県東海村のウラン加工工場「ジェー・シー・オー(JCO)」東海事業所で臨界事故が発生。敷地内の転換試験棟で核燃料サイクル開発機構(当時)が発注した高速実験炉「常陽」の燃料に使う、硝酸ウラニル溶液の濃度を均一化する作業をしていた作業員3人が被曝(ひ・ばく)した。
3人が正規の手順を逸脱し、ステンレスのバケツでウラン粉末を溶かし、沈殿槽に規定量以上の硝酸ウラニル溶液を入れたのが原因だった。
3人は1時間半後、国立水戸病院(茨城町)で処置を受け、ヘリコプターで放医研へ搬送された後、3施設で治療を受けた。
JCOから科学技術庁に事故の一報のFAXが入ったのは発生から40分以上後の午前11時19分。「臨界事故の可能性あり」との一文があったが、臨界の継続が確認されたのは午後4時半ごろだった。
国と同じ頃連絡を受けた東海村は国や県の助言が得られず、午後3時半、独自の判断で事故現場から半径約350メートルの住民に避難を要請、161人が応じた。
科技庁の現地対策本部は午後3時34分に設置されたが、核燃機構やJCO責任者らが合流し、具体的に臨界終息策が話し合われたのは午後6時ごろからだった。
茨城県は午後10時半に10キロ圏内の住民の屋内退避を要請し、常磐自動車道やJR常磐線の一部が不通になった。
午後10時ごろから行われた政府レベルの現地対策本部全体会議で、冷却水を抜いて臨界を終息させる対策で合意。10月1日午前2時35分から、水抜き作業が始まり、午前6時15分ごろ、約20時間続いた臨界状態は停止した。
被曝した3人のうち2人は事故の83日後と211日後に死亡した。事故後の評価では、周辺住民の個人被曝線量は最大21ミリシーベルト。国際原子力事象評価尺度(INES)は国内最悪のレベル4だった。
◇ ◇
《筆者のひとり香取啓介から》
♪世紀をひらく原子の火
茨城県民の歌の3番の冒頭です。57年に茨城県東海村の日本原子力研究所第一号実験炉が国内で初めて臨界に達したことにちなんでいます。茨城県出身の筆者も、小学校で習い、少し誇りに思っていました。
JCOの臨界事故には、扱いを間違えると牙をむく原子力の怖さを再認識させられました。東海村は被爆者が出ただけでなく、風評被害が起きるなど影響が出ました。
一方、混乱する行政や防災機関に比べ、住民は冷静だったと言います。多くの原子力施設が立地する村だったこともあり、臨界終息などの事故対応も、地元で働く専門家が協力し、うまくいったということです。
先日、電力会社幹部との会話で、JCO臨界事故について口にすると、相手の表情が瞬く間に曇りました。
「JCOは規制の緩かった核燃料加工施設で特別。規制の厳しい原発では起こりえない」。
取材中、規制機関からもそんな声を聞きました。しかし、「自分たちは安全」と特別視するのには危うさを感じます。
発電時に二酸化炭素を出さない原発が、温暖化対策の柱として再び脚光を浴びています。ルネサンスの流れに乗り遅れるなとばかりに、国やメーカー、電力会社は原発の海外戦略に乗り出しています。ただ、再びJCOのような事故が起きてしまえば、この機運は消し飛んでしまうということを、事故から10年を機に関係者には改めて考えて頂きたいと思います。
この事故は確か現場からの作業の作業能率向上の提案として量をまとめて扱おうとして起こったことだったと思います。臨界量以上にすれば臨界状態になることは原子力関係者なら常識で、それを絶対に起こさないようマニュアルも決められていたはずです。にもかかわらず、現場から作業能率向上の提案として出てきた時、その重大な問題点を挙げて却下すべき人たちが、原子力の初歩的基本を忘れ或いは無視して、安易にそれを承認し、結果として、火の目を見るより明らかに臨界事故に至り、彼らを死亡させ、ひいては周囲にも甚大な恐怖を与えたことは、使用者、管理者として労働者の安全をしっかり守っていく義務を怠った重大な労働安全衛生法違反でありました。こんなひどい労働安全衛生法違反はない、といえると思います。犠牲者は彼らの無責任、怠慢によって殺されました。絶対に繰り返されてはならない事例です。
忘れないように、、、転載です。
https://aspara.asahi.com/blog/science/entry/fvSvnxX149
さまよう原子力「安全神話」 [09/09/18]
東京科学グループ・香取啓介、鈴木彩子
2人の作業員が死亡し、周辺住民ら660人以上が被曝(ひ・ばく)した茨城県東海村のJCO臨界事故から30日で10年を迎える。核分裂が連鎖して続く「臨界」が起きた日本初の被曝事故によって、原子力安全神話は崩れた。それから何が変わり、何が課題として残されたか。
◇医師不足・テロ懸念消えず
防護衣を着て顔面をシールドで覆った医師や看護師らが、ストレッチャーで運び込まれたマネキンを取り囲む。床も壁もシートに覆われた部屋で、放射線の測定器をかざしながら、傷口の応急措置を施す。「普段通りの考え方でやってください」と講師の助言。8月上旬に茨城県立中央病院で開かれた緊急被曝(ひ・ばく)医療研修の一場面だ。
「日本では、原発建設と医療がセットになっていなかった。緊急被曝医療に取り組む医師も教育機関もありませんでした」。講師を務めた原子力安全研究協会の衣笠達也・放射線災害医療研究所副所長は、80年代を振り返る。
阪神大震災以降、国の防災基本計画が改定され、放射線医学総合研究所(放医研、千葉市)を中心とする連絡会議「緊急被ばく医療ネットワーク会議」が98年に発足。緊急時の受け入れ態勢を話し合っていた矢先にJCO事故は起きた。
事故では、関係者の連携や医療態勢をあらかじめ整えておく重要性が示された。
原子力安全委員会は01年、患者の受け入れ態勢をまとめた指針「緊急被ばく医療のあり方について」を作成した。まず、地域の「初期被ばく医療機関」で患者を受け入れ、拠点病院「2次被ばく医療機関」に搬送。さらに、西日本は広島大、東日本は放医研に運ぶしくみを整えた。医療従事者への研修も始まった。
「この10年で医療態勢はずいぶん整った」と関係者は口をそろえる。研修の受講者はのべ1万3千人。原子力施設が立地・近接する19道府県のうち、鳥取県を除く18道府県で、10月までに医療機関の指定が整う見通しだ。
だが態勢はこれで万全か。
課題の一つに、地域医療が抱える問題がある。原発のある敦賀半島に近い京都府は06年、舞鶴市立舞鶴市民病院の「2次」機関の指定を解除した。医師の大学病院への引き揚げなどを受け、06年に24時間態勢の救急救命と外科を休止。「現状の人員と施設では被曝医療はできない」との声が病院から漏れる。
原発周辺自治体以外の対応にも課題が残る。01年の米同時多発テロ以降、核テロへの危機管理が世界的に叫ばれている。被曝医療態勢の整わぬ地域で迅速に対応できるか。
今月5日、札幌医科大で、事故後10年を検証する「緊急被ばく医療フォーラム」が開かれた。事故当時放医研の室長だった鈴木元・国際医療福祉大教授は、参加者に警鐘を鳴らした。「従来の被曝医療は原発立地県に限られ、少数の患者に備えてきた。今後は大勢の患者が出た場合にも対応できるよう、災害医療を整理し直す必要がある」
◇推進側に規制の権限
ハードからソフトへ。JCO事故を契機に、国の安全規制はがらりと変わった。
事故はウランを扱う手順の逸脱が原因だった。当時の規制は、設置許可の審査や定期検査など、施設や設備の安全性に力点が置かれていた。その上、JCOのような燃料加工施設は定期検査が義務づけられていなかった。
意図的な不正をどう防ぐか。国は事故後、原子炉等規制法を改正。施設の運転や保守管理のルールをチェックする保安検査制度を導入し、保安検査官を置いた。
01年の省庁再編に伴って行政組織も変わった。核燃料加工施設に対する安全規制は、科技庁から、新たに設置された原子力安全・保安院が担当するようになった。
ただ「推進と規制の分離」という課題は残った。保安院が原子力を推進する経済産業省に所属する現状への疑問は多い。一方、保安院幹部は「保安院と内閣府の原子力安全委による二重チェックで十分機能を果たしている」と反論する。
◇有事の「目玉」持ち腐れに
事故当日、政府の情報収集は遅れた。現地、科技庁、首相官邸と対策本部が乱立し、混乱に輪をかけた。
現場から10キロ圏内の住民の屋内退避を決めた茨城県。「どこに助言を求めたらいいのか分からなかった」。当時担当した山田広次・危機管理室長は振りかえる。
事故から2カ月後、国は原子力災害対策特別措置法を制定。事業者責任の明確化や、情報・指揮系統の国への一元化などが盛り込まれた。
目玉として作られたのが、災害時に現地本部となるオフサイトセンターだ。1カ所8億~10億円かけて全国22カ所に整備され、原子力防災専門官が常駐する。
しかし、07年の新潟県中越沖地震で運用面での課題が露呈した。東京電力柏崎刈羽原発が被災し、施設内で火災が発生。ごく微量の放射性物質も施設外に出たが、保安院は「原子力災害でない」としてオフサイトセンターを使わず、地元にも情報発信がされなかった。総務省の行政評価もオフサイトセンターの活用を求めた。
◇相次いだ「モノ言う首長」
問 いざというとき本当に頼りになるのは?
答 国19・6%、村67・6%
東海村が事故後の00年2月にまとめた村民アンケートでは、国への不信が明らかになった。
村長の村上達也さんは、かねて「原子力に率直に物が言えない風潮に疑問を感じていた」という。原子力についての村側の議会答弁を原子力業界の職員が書いている現実を目の当たりにした。「住民理解と言いながら、カネや力で抑えていく。そういう姿勢はおやめになったらどうか」
国や原子力業界に対し、「モノ言う首長」は他県に飛び火した。福島県の佐藤栄佐久知事(当時)は事故後の01年2月、原発でプルトニウムを燃やすプルサーマル発電の凍結を宣言。核燃料サイクルの見直しも提言した。中越沖地震を経験した新潟県の泉田裕彦知事も、被災した柏崎刈羽原発の再開について国が「安全」と判断した後も、慎重姿勢を崩さなかった。
原子力資料情報室の西尾漠さんは「事故を契機に、立地地域が原子力後の街づくりを真剣に考え始めた」と話す。
◇臨界終息、発生の20時間後◇
99年9月30日午前10時35分ごろ、茨城県東海村のウラン加工工場「ジェー・シー・オー(JCO)」東海事業所で臨界事故が発生。敷地内の転換試験棟で核燃料サイクル開発機構(当時)が発注した高速実験炉「常陽」の燃料に使う、硝酸ウラニル溶液の濃度を均一化する作業をしていた作業員3人が被曝(ひ・ばく)した。
3人が正規の手順を逸脱し、ステンレスのバケツでウラン粉末を溶かし、沈殿槽に規定量以上の硝酸ウラニル溶液を入れたのが原因だった。
3人は1時間半後、国立水戸病院(茨城町)で処置を受け、ヘリコプターで放医研へ搬送された後、3施設で治療を受けた。
JCOから科学技術庁に事故の一報のFAXが入ったのは発生から40分以上後の午前11時19分。「臨界事故の可能性あり」との一文があったが、臨界の継続が確認されたのは午後4時半ごろだった。
国と同じ頃連絡を受けた東海村は国や県の助言が得られず、午後3時半、独自の判断で事故現場から半径約350メートルの住民に避難を要請、161人が応じた。
科技庁の現地対策本部は午後3時34分に設置されたが、核燃機構やJCO責任者らが合流し、具体的に臨界終息策が話し合われたのは午後6時ごろからだった。
茨城県は午後10時半に10キロ圏内の住民の屋内退避を要請し、常磐自動車道やJR常磐線の一部が不通になった。
午後10時ごろから行われた政府レベルの現地対策本部全体会議で、冷却水を抜いて臨界を終息させる対策で合意。10月1日午前2時35分から、水抜き作業が始まり、午前6時15分ごろ、約20時間続いた臨界状態は停止した。
被曝した3人のうち2人は事故の83日後と211日後に死亡した。事故後の評価では、周辺住民の個人被曝線量は最大21ミリシーベルト。国際原子力事象評価尺度(INES)は国内最悪のレベル4だった。
◇ ◇
《筆者のひとり香取啓介から》
♪世紀をひらく原子の火
茨城県民の歌の3番の冒頭です。57年に茨城県東海村の日本原子力研究所第一号実験炉が国内で初めて臨界に達したことにちなんでいます。茨城県出身の筆者も、小学校で習い、少し誇りに思っていました。
JCOの臨界事故には、扱いを間違えると牙をむく原子力の怖さを再認識させられました。東海村は被爆者が出ただけでなく、風評被害が起きるなど影響が出ました。
一方、混乱する行政や防災機関に比べ、住民は冷静だったと言います。多くの原子力施設が立地する村だったこともあり、臨界終息などの事故対応も、地元で働く専門家が協力し、うまくいったということです。
先日、電力会社幹部との会話で、JCO臨界事故について口にすると、相手の表情が瞬く間に曇りました。
「JCOは規制の緩かった核燃料加工施設で特別。規制の厳しい原発では起こりえない」。
取材中、規制機関からもそんな声を聞きました。しかし、「自分たちは安全」と特別視するのには危うさを感じます。
発電時に二酸化炭素を出さない原発が、温暖化対策の柱として再び脚光を浴びています。ルネサンスの流れに乗り遅れるなとばかりに、国やメーカー、電力会社は原発の海外戦略に乗り出しています。ただ、再びJCOのような事故が起きてしまえば、この機運は消し飛んでしまうということを、事故から10年を機に関係者には改めて考えて頂きたいと思います。


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